子供は親の無意識の衝動に反応する |
カテゴリ
最新の記事
記事ランキング
以前の記事
2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 04月 2016年 03月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2014年 12月 2014年 10月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2010年 08月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 02月 ブログジャンル
画像一覧
|
2016年 12月 05日
<行動と動機> 行動は観察することができる。 このことから行動主義者たちは、“行動は科学的に信頼し得るデータである”と主張するのであるが、それはまったく間違っているとフロムは言う。 実際には、たとえ表面的な観察では違いは見えないとしても、動機となる衝動いかんによって行動自体の意味が違っているのである。 その簡単な例として、子供は親の無意識の衝動に反応するということを示そう。 一方に愛情深く思いやりのある父親がいる。 もう一方にはサディスティックな父親がいる。 異なった性格構造を持つこの二人の父親が、息子の健全な成長のためにはこの種の罰が必要だと信じるがゆえに、それぞれが息子を叩くとする。 父親たちは一見まったく同じ行動をしている。 彼らは子供を手で叩いている。 しかしもし私たちが二人の父親の行動を比較すれば、実はそれが同じものではないことがわかる。 彼らが罰を与える前後に子供をつかまえたり、子供に言って聞かせたりする仕方や、彼らの顔の表情などが、一人の父親の行動をもう一人の父親の行動とはまったく違ったものにする。 それに応じてそれぞれの行動に対する子供たちの反作用も異なる。 一人の子供はその罰の破壊的な、あるいはサディスティックな性質を感じる。 もう一人の子供には何ら父親の愛を疑う理由はない。 子供の反作用の違いは父親のこの行動がただ一回限りの場合でも生じる。 しかしそれが子供たちが今までに経験してきたことの積み重ねであって、彼の父親像と父親への反作用を形成してきた無数の行動の一つの場合にすぎないのであるなら、その違いはなおさらのことである。 二人の父親がともに子供自身のために子供を罰しているのだと確信しているという事実は、ほとんど何の違いももたらさない。 せいぜいこの道徳主義的な確信があるがゆえに、かえってそれは合理化として作用し、普通ならこの父親のサディスティックな衝動にブレーキをかけるであろう心理的抑制がなくなるだろうというぐらいのことである。 またたとえサディスティックな父親が決して子供を実際には叩かないとしても、父親のその”非暴力的”な行動もやはり同じ反作用を生み出すだろう。 というのは子供を叩いた時に彼の手が伝えるのと同じサディスティックな衝動を、その父親の目が子供に伝えるからである。 子供たちは一般に大人より敏感なので、彼らは父親の切り離された行動でなく、その衝動に反応するのである。 (『破壊』参照)
by omoinoha
| 2016-12-05 10:35
| エーリッヒ・フロムを読む
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||