「ずるさは弱さに敏感」 |
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加藤諦三先生の記事をメモしたノートを久しぶりに読んだ。
心理学を学び始めた頃に知った言葉で、当時、僕を支えてくれた言葉のひとつである。
「ずるさは弱さに敏感である。」
ずるい人間はまじめな人間の弱さを敏感に嗅ぎつける。(本能的に見抜く。)
いじめる人間はその弱い人間を”選んで”いじめるのである。
自分に欠点があるからいじめられるのではない。
自分に非があるからいじめられるのではない。
抵抗しないからいじめられるのである。
「NO!」 「いやだ!」 「やめてくれ!」 と言わないから(言えないから)、
そこをずるい人間につけこまれて、都合よく利用されるのである。
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<記事の要約>
欲求不満の人間がいまこの社会で増えている。
その不満を解消しようとして誰かをいじめているので、欲求不満がなくならない限りいじめはなくならない。
力で抑えようとしても見えないいじめは増加する。
ずるい人間は憎しみや不満をそのまま表現できないとき、「正義の仮面」をかぶって誰かをいじめる。
相手は自分より弱ければ誰でもいい。
とくに真面目な人間はこのような構図を知っておく必要がある。
社会全体がいまは猛烈に欲求不満であるということを、真面目なゆえにノーが言えない人間は十分に理解しておく必要がある。
日本のいじめの特徴は、多数の人間がひとりの人間を長期にわたっていじめることにある。
いじめの周辺には傍観者とそれをはやし立てる人間がいる。
傍観者は自分に矛先を向けられたくないのでそのいじめに加担する。
いじめの根底にあるのは不満で、いじめることによって彼らは癒されている。
なんと悲しいことであろうか。
いじめられた人間は、ちょっと立場が変わって自分より弱い相手を見つけると、こんどはいじめる人間になる。
先生とか上司などの周囲の人が、ずるい人間を見抜けないことも問題である。
ずるい人間を批判せずに、逆に賞賛してしまうことも多い。
ずるい人間は自分の手を汚さず、扇動される人間の方の手が汚れる。
この見えない部分をきちんと「見る」ことが大切である。
もしいじめのターゲットにされてしまったらどうすればいいか。
まずするべきことは、なぜ自分がいじめられたのかを考えることである。
なぜ多くの人の中からあえてこの自分が選ばれたのか。
その理由は簡単である。
抵抗しなかったからだ。
自分は抵抗もしないし戦わない人間であると軽く見られ、その弱さを見透かされたのである。
いじめる人間にはずるさがある。
ずるさは弱さに敏感だ。
いじめる人間にとっていじめは癒しである。
そのずるい人間が自分の弱さにつけこんだのである。
たとえばイソップ童話の「ウサギとカメ」の物語がある。
カメはカメであり、重くて堅いその甲羅が体を守っている。
歩みが遅いのは弱点ではなく守りである。
いじめられるとそれが弱点だと思ってしまいがちであるが、実はそうではない。
本人が長所だと思っていることは短所で、その逆もたくさんある。
人の言ったことに惑わされず自分を正しく見ることが大切である。
他人の言動が自分を傷つけることはない。
事実は人を傷つけない。
人は事実の中で暮らしているのではなく、自分の認識した事実の中で暮らしている。
たとえば相手を誘って断られた。
それは自分の欠点によって相手から嫌われたからだと考えると傷つくが、相手は時間が無かったからだと解釈できれば傷つかない。
米国のある社会学者が「自信のある大学生」とそうではない「恥ずかしがり屋の大学生」の幼少期の違いを調査した。
その結果によると、「自信のある大学生」にはいじめられた経験がなく、嫌なことがあっても成績が悪くてもそれを安心して話すことができる親のいる家庭だったという。
自信はある日突然つくものではなく、小さい頃からの積み重ねによって得られるものである。
子育てにおいても、子どもを心から思う気持ちがあれば、親の気持ちは必ず伝わる。
子どもは無意識であってもその愛情に反応し、納得する。
親が子どもに権力を行使するのではなく、きちんと子どもに向き合うことがとても大切である。
このことを改めて心に刻んでおきたい。
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