理解してもらいたい。でもすべては知られたくない。<ウォルフレンを読む(10)> |
でも反面、本当にすべてを理解されてしまうということになると、それは人をとても不安にする。
なぜなら人は、自分自身にも隠している自分の弱さまでもが知られてしまうことを、恐れているからである。
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(読書ノート)
ウォルフレン・著 『日本/権力構造の謎』 (1章)ジャパンプロブレム
<”不可思議な国”という煙幕>
日本には、日本人であることには固有の精神的次元があって、それは外国人には把握することが不可能だという考えがある。
そのような考えは、日本人の自尊心の重要な要素であり、それゆえに広く日本人の間で信じ込まれている。
日本人の間では、自分たちの文化はユニークだということが、ほとんど信仰のようになっている。
それも、すべての文化はユニークである、という意味でのユニークさではなく、日本の文化は究極的に他の文化とは異なるのだという、ほんとうにユニークなユニークさである。
それは日本人のユニークな感受性の源であり、外国人がそれに言及してはいけないということはないにせよ、日本人が理詰めに追求されることからは守られているというものである。
だから多くの日本人、とくに外国に向かって日本の利益を代表しなければならない人は、自分たちが本当に理解されてしまうと考えると、不安になるようだ。
外の世界と比較する場面が生じるたびに、日本人は学校でも会社でも、報道メディアや役人のスピーチを通して、日本という国は特別なのだと言い聞かされる。
(しかし日本人はほんとうにユニーク=特別なのだろうか?
そんなことはない。
すべての文化はユニークで特別なのである。)
西洋の知識人が、日本はまったく摩訶不思議な国だという考えを抱きはじめたのは、もう何世紀も前のことである。
そのことが、日本はユニークだという考えに安易に転換されるのであるが。
しかし国際的な往来が大いにも増えたにもかかわらず、特殊で微妙な雰囲気を持つ遠い国という昔のイメージが今も大いに残っている。
日本は、いまなおロマンチックな想いの対象なのだ。
礼儀正しさ、勤勉さをはじめ、この種の徳目が自国では少なくなったと嘆く一部の西欧人にとっては、日本はユートピアのような国なのである。
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