抑圧と抵抗 |
「抑圧と抵抗について」
(要点)
人間は、もし誰か他者が、彼が抑圧しているものに触れたら、彼は他者のアプローチに対して<抵抗>する。
彼は、無意識に抑圧しているものの発見に対して防衛しているのであって、自分では抑圧しているものも<抵抗>していることも意識していない。
彼は自分が抑圧している衝動が他人に知れたとしたら、罰せられ、愛されなくなり、あるいは恥をかかされるのではないかと恐れている。
彼は、自分が抑圧している自尊心や自己への愛が、自分自身に知られることを恐れている。
抑圧されたものに触れると抵抗が固められてゆくことは、日常生活からの例でもたくさん観察できる。
・「子どもたちをそばに置きたいのは彼らを所有し、支配したいからだ。それほど彼らを愛しているのではない」と言われて憤激の反作用を起こす母親……
・「娘の処女性を気づかうのは、娘に対する彼自身の性的関心のためである」と言われた父親……
・「政治的信念の背後にある欲得の関心」を指摘されたある種の型の愛国者……
・「そのイデオロギーの背後にある個人的な破壊衝動」を指摘されたある種の型の革命家……
実際、他人の行動の動機を問題にすることは、礼儀上最も尊重されているタブーの一つを破ることになる。
そして他人の動機には触れないという礼儀は、相手の攻撃の高まりを最小限にするという機能を持っているので、これは非常に必要なタブーなのである。
真実を言う人間は、社会の集団の中ではひどく嫌われ、憎まれる。
それは、真実を言うことによって、彼らはそれを抑圧している人びとの抵抗を動員するからである。
真実を抑圧している人びとにとって「真実」が危険であるのは、それが彼らの権力を脅かしうるだけでなく、それが彼らの意識的な方向づけの全体系をゆさぶり、彼らの合理化を許さず、違った行為をさえ強いるかもしれないからである。
抑圧されていた重要な衝動を意識する過程を体験した人びとだけが、その結果として起こる、まるで大地を揺るがすような当惑と混乱の感覚を知っている。
すべての人びとが進んでこの冒険を行うわけではない。
まして盲目であることによって少なくともしばらくは利益を得られる人びとに至っては、なおさらのことである。