憲法改正が議論されている今だからこそ、フロム『自由からの逃走』の教訓から学びたい |
首相、改憲へ本音封印
96条改正を突破口
視線の先には9条
やはり……
憲法が制定された経緯のことなどを考えると、もちろん現行の憲法のすべてに問題がないとは思わないが、
憲法を改正しようとしている動機になにか恐ろしいものを感じる。
権力者の行動の真の動機がもし「復讐心」だとしたら、
(もしかするとそれは権力者自身も気づいていない隠された感情なのかも知れないが)、
人びとは不幸へのまっしぐらの道を進むことを強いられることになる。
この国はいつのまにか全体主義への道を歩んでいるのだろうか。
それももう引き返せないほどのところにまで……
今こそエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』から得られる教訓を思い出すべき時かもしれない。
かつてナチ政権がドイツを支配したとき、ナチズムのイデオロギーに深く惹きつけられた一部の人びとが狂信的にその主張者たちに結びついた、ということはまだ理解できるとしよう。
しかしそれまでナチズムに対して絶えず敵意を抱いていた人びとさえもが、なんら強力に抵抗することもなくナチ政権に屈服したのである。
彼らは主として労働者階級や自由主義的なブルジョアジーからなっており、その優れた彼らの組織にもかかわらず、当然期待してよいはずの抵抗を示さなかった。
大多数の人びとがナチ政権に簡単に服従してしまったのは、人びとが「心理的に疲労していた」ことと、「あきらめの状態にあった」ことによるものと思われる。
この状態は現代における個人の特徴であり、日本においてさえも例外ではない。
大多数の人びとがナチ政府に対して忠誠を捧げるに至ったもう一つの誘因がある。
ひとたびヒットラーが権力を握った以上、彼に戦いを挑むことはドイツの共同体から自らを閉めだすことを意味した。
もし集団から締め出されて孤立することと、共同体に属したままでいるという感情を持つことのどちらかを選ばなければならないとすれば、多くの人びとは権力に服従して集団に属していることを選ぶであろう。
どのような政党もひとたび国家の権力を掌握すると、大部分の民衆の忠誠を獲得することができるのである。
抵抗するべきときに抵抗しないと、当然あると思っていた自由は(本当は真の自由など日本にはないのかも知れないが)、
気がついた時にはもうはるかに手の届かないところにまで遠のいていることだろう。
だから私はいまの憲法改正の動きには、「断固反対」の意思を表示しておきたい。
そういえば今日は憲法記念日。