『日本人だけが知らない日本のカラクリ』パトリック・スミス/森山尚美訳(新潮社) |
読書メモをブログにアップしておく。
同書の「訳者あとがき」で、森山尚美氏は著者の言葉を引用してこう述べている。
世紀末の世界にあって、ナンバーツーの経済大国。
だが、かつて日本礼賛論ブームをあおった輝かしいイメージは、西欧ではすっかり鳴りをひそめた。
外に対してはまともな自己主張も意志表示もできず、内にあっては改革はおろか、過去の後遺症の手当てすらできそうにないリーダーたち。
それに対して一般国民は、おのおのが属するイエに収まり、セケンに順応し、声をあげようとしない。
知識人は堂々と歴史を書き換え、詭弁を弄して体制を支える。
自由な言論は、張りめぐらされた包囲網によって巧みに妨げられている。
どうみても民主的な社会ではない。
それ以前に、日本はまだ啓蒙されていない国なのだ、と著者パトリック・スミスは言ってくれる……
(「訳者あとがき」から)
このコメントは、今日のこの国の問題を実に鋭く突いており、同書の発行から10年以上も経った今でも、その指摘は新鮮さを失うどころか、ますます鋭さと重みを増しているようさえ思える。
以下は読みながらメモした個所。
<この国の病根>(P24)
「マッカーサーが与えた平和憲法」と「日本にあてがわれた冷戦での任務」、この二つには重大な矛盾があった。
この矛盾が、戦後の日本の精神分裂症を引き起こした。
<E.H.ノーマンのエピソード>(P34)
カナダの著述家で外交官、また確実に将来を嘱望されていた日本研究者、E.H.ノーマンこそは、複雑にしてきわめて人間的な日本、深刻な問題を抱え、敗戦後、徹底した方向転換を必要としてそれを追究した日本、そのこと真に理解していた第一人者だった。
ノーマンのことを、私は最近までまったく知らなかったが、ウォルフレンの本で引用されていた彼の以下の言葉が強く印象に残っていた。
「日本の遅咲きの封建主義の過酷な抑圧は、現代の日本に精神的かつ社会的な深い傷痕を残しており、その一見平穏かつ整然たる外観の内側、底知れぬ暗部に、暴力と、病的興奮と、獣性が鬱積している。」
(『人間を幸福にしない日本というシステム』P335~)
日本人の精神構造の深層を鋭く突いた重い言葉である。
ノーマンがスパイ容疑をかけられ、結局追いつめられて自殺した、ということを知り驚かされた。
<ジョアン・ロドリゲスが見る日本人の心>(P52)
1576年に日本にやってきたイエズス会修道士のロドリゲスは、日本人には心が三つある、と見ていた。
「ひとつは世間に向けて口にする偽りの心」
「友だちだけに打ち明ける胸のうちの心」
「ほかの誰にも見せず、心の奥にしまっておく自分だけの心」
<集団のアイデンティティ>(P58)
日本人にとって「集団のアイデンティティ」とは、通常は、日本人が外国人を排除するためにしがみつくものであると考えられる。
しかし、それと正反対の命題を考えなければならない。
集団は、日本人を中に閉じ込めておくため、そして日本人が個人になることを妨げるために作られたのではなかったか、と。
<主体性論争>(P59)
もっとも著名な主体性の擁護者である丸山真男は述べる。
「日本社会の精神構造の内面的改革が起こらなければならない」、と。
丸山が率いる「近代主義者」の陣営は、二つの主体性を仮定する。
①個人的な主体性=私的で独立した存在としての自己
②社会的な主体性=より大きな全体の中で自己の位置をも理解している自由な個人
<今日の日本人が持つ多くのもののルーツをたどることができる薄暮の封建時代>(P63)
江戸の日本は、物事を無視する権力の典型的なケースを見せてくれる。
つねに無視されるのは、表面のすぐ下に在った葛藤と緊張、すなわち隠された歴史である。
<日本人の精神構造のルーツ>(P65)
権威の尊重と権威への依存、確固たる忠誠心、禁欲的生活、厳格な労働観。
これらすべては封建後期が日本人に残した影響である。
<威圧と権威に起因する日本人のアイデンティティ>(P65)
過去が見えてくると日本人の本質的問題が見えてくる。(=視界が一新する。)
いったん表面のすぐ下の葛藤に気づくならば、集団のアイデンティティは、「伝統と文化」よりも「威圧と権威」に起因していることがわかってくる。
<常習的な借り手である日本>(P66)
近代化の遅れに衝撃を受けた日本は、諸外国から何でも借りた。
しかし何を借りても、日本はその本質を見落とした。
(P67)
(日本は西洋の信念に追随したが)「主権を有する個人」という西洋の概念を受け入れようとはしなかった。
<実は個人に自由を与えなかった「明治」という時代>(P71)
明治は封建的絶対主義から19世紀版絶対主義への移行でしかなかった。
日本はコミューン(原始共同体)型社会のままだった。
開かれるどころか閉鎖されたままで、普遍的どころか特殊で、個人の価値を養うことができない個人の社会にすぎなかった。
この矛盾が近代日本を今日ある姿、つまり
「とてつもなく大きな実現不能の夢」
「熾烈な競争」
「ほとんど全員に欲求不満がうずめく場所」にした。
<夏目漱石『私の個人主義』>(P75)
漱石は苦悩に満ちた人生を送り、その後、彼自身の人生を左右されることになる発見へと至る。
それは、「日本人が学び得るもっとも深遠なる教訓は、ほかの誰かのようになるのではなく、自分自身になること、すなわち個人としての人格を発揮すること」、というものだった。
そしてほとんどの人はそれを理解しなかった。
<個を確立できない日本人>(P81)
戦後の日本人の夢はつねに逃避の夢だった。
「サラリーマン」は独立して一国一城の主となることを夢みた。
日本人は「ギネスブック」に載ることに並々ならぬ意欲をみせた。
……このようなこだわりは、個人として自己を解放したいという永続的欲望を表していた。
しかしそれは、ひとつの証として実現しようとしたことを、一時的に成し遂げたにすぎなかった。
日本人はいまだに、個人として生きることができない個人だった。
<民主主義のためにも必要な個人の主体性の確立>(P81)
丸山真男が言った「社会の精神構造の内面的改革」が今まさに求められている。
個人の主体性の確立は、民主主義のためにも必要なのである。
<社会変革の可能性>(P82)
社会は、その構成員が変化を望んでいればこそ変化する。
人間が制度を変えるのであって、制度が人間を変えるのではない。
<この国が日本人に求めた人間像>
(P95)
受験地獄が生み出す人間。
猛烈な競争と、批判的思考を養うことのない知識の詰め込み、受験期間中の数年間は他のすべての生徒が敵になるという状況は、探求する知性ではなく、心の狭い機械のような人間を生産する。
彼らはヒエラルキーの中でできるだけ高い地位を確保することに目を奪われ、同等の者と健全な絆、つまり水平的な人間関係を築くことができない。
(P99)
近代日本の教育は、探究する個人よりも機械に近い人間を作る(造出する)ためのものだった。
<文部省の特別委員会がまとめたリポートの題=「期待される人間像」>(P109)
いったい誰によって期待されるというのか?(P112)
この答えを知ると、戦後の体制について多くを知ることができる。
「期待される人間像」を熱狂的に歓迎した者のなかには、日本でもっとも有力な財界グループ、「経団連」が含まれていた。「期待される人間像」は、日本が高度成長への道を邁進する過程で求められるタイプの人間の製造に主眼が置かれていた。
<希望>(P117)
日本人はいつかかならず、自分が日本人である前に一個の個人であることを学ぶ……
<イエ>(P161)
安心の「安」は、家の中にいる女を表している。
<人に依存する者によって構成される社会>(P174)
「日本で女性が独身のまま生きていくのはあまりにも大変すぎる。人に依存する者のためにできている社会だから……」
人に依存する者の社会は、愛情と親密さが花を咲かせる社会ではない。
つまるところ、従属して生きる者には、人を愛することはできないし、愛すべき人にもなれない。
<依存的な人間が権威主義的な社会を求める>(P245)
成人の受動的依存希求は、ヒエラルキーに徹底してこだわる社会にみられる顕著な要素なのである。
<日本国憲法の文体>(P322)
日本国憲法の条項は奇妙な文章である。
論調は長ったらしい叱責の感があり、「……してはならない」という言葉がやたらに出てくる。
「児童は、これを酷使してはならない」「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」……
それらの条項に基づいて国家を築くことができるような文章ではない。
本質的に、戦前の日本に対する禁止令である。
たくさんの禁止令「……してはならない」にまじって第9条がある。
<安全保障条約の幻想>(P342)
安全保障条約は危機に履行されずにいるかぎりにおいてのみ役に立つ。
いったん履行されたならば、(日本人が輸出用のウォークマンやホンダの車を作り続けているときに、太平洋のどこかで米兵や米軍パイロットが日本を守るために死に始めたならば)安保条約はかならずや、ただちに修復できぬほど対米関係を傷つけるだろう。