月を指す指は月ではない |
「禅のことは、知って得るのではなく、体験して得なければならない」
「考えることで禅を理解することはできない……」
そういったことを考えている。
こうして考えているとき、禅の理解は体験していないが、禅そのものを体験している。
つまり禅を考えるという行為そのもの、考えるという生命の営みそのものを体験している。
それが禅、というように理解できる。
禅。
矛盾していることをありのままに受け入れる。
(幸せ)
たとえば幸せについての会話。
僕は彼女に問いかける。
「幸せってなんだろう……」
彼女はちょっと考えてから、にっこりと笑って答える。
「ねぇ、一緒にごはんたべよっ……」
おそらく彼女は正解を答えている。
(悟り)
「求めて、そして求めない時に、悟りにある」
「悟り」はそこに到達する目標ではない。
悟りにある人はただ悟りの状態にある、というだけである。
求めた瞬間にそれは手元から去っている。
求めて、そして求めない時に、それはまさに手中にある。
「月を指す指は月ではない」
月を見ているその瞬間、月は私と一体となり、私は月そのものを体験する。
だが「月とは何か」と問いを発したその瞬間、月そのものは去る。
その瞬間、私は月そのものの体験から離れ、月を指す指を探し始める。
しかし問いを発する以前、すなわち求めて(月を見ているその瞬間)、そして求めていない時(「月とは何か」と問わないでいる時)には月そのものを体験する。
おそらくそういうことなのだ。
例えば禅問答。
「命とは何か」と問う。
答えは一言、「お前は誰だ」
つまり「その問いを発したお前そのものが命である」という回答なのだろう。
たぶん……