「自分の弱さを認める」ことの意味 |
『期間限定の思想』(内田樹先生)(角川文庫P174)に興味深い記述があった。
「自分が弱いことを受け容れましょう」というセラピストは多い。
学校なんか行かなくていいですよ。仕事なんかつらければやめなさい。いやなら別れちゃいなさい。子どもが可愛くなくっても気にしない。親を憎む人なんてたくさんいます。家族なんて解体しちゃえばいいですよ……。
こういうしたり顔のアドバイスをするセラピストが山のようにいる。
この指摘が、「あなたは幼く、弱く、誰からも相手にされないほどに非力な人間である、その事実を認めなさい」という「弱さ」を客観的評価にとどめるのなら、このアドバイスは間違っていない。
しかし、その意味を「あなたは弱い。弱い人間であることを恥じることはない。その弱さを受け容れ、その状態に満足しなさい」というふうに解釈するなら、このアドバイスはまっすぐ地獄への道を指し示している。
弱さを認めるのは、強くなるためである。
それ以外に弱さを認めることにはどんなメリットもない。
たしかにセラピストが「自分の弱さを受け容れてその状態に満足しなさい」と言っているのだとしたら、そのアドバイスは有害であるし、セラピストの力量もたぶんしれたものだろう。
では「自分の弱さが認められる」とはどういうことか。
本当の強さは自らを信じる力に根ざしている。
強い人間は、自らの弱さも含め、客観的に自分自身を知っている。
だから強い。
「強くなるために、弱さを認める」とは、自分自身をよく知るということなのだ。
弱さを認めることの意味は、
「人間は完全ではない」
「誰しも間違いをおかす可能性がある」
「だから自分自身も完全ではなく弱い人間の一人である」
「自分自身の中にも悪が存在する」
「それにもかかわらずその自分自身に価値がある」
……そのことが認められる、ということである。
自分の弱さを認めることは、あるがままの自分を客観的に評価し、その自分自身を受け入れることであって、弱さに逃避することではない。
これに関係するユングとフロムの言葉を引用する。
ヒンドゥー教徒は、寺院を建てるときどこか一ヶ所を未完成のままにしておきます。
神だけがものを完全に作ることができるのであって、人間は決してできないのです。
人間が完全ではないことを知ることはよいことであり、それで、人間はより深い満足を感ずるのです。
(ユング『分析心理学』P150)
悪とは、われわれすべての者の内部に存在する。
われわれがそれを自覚すればするほど、われわれは他人を裁く地位にたつことはできなくなる。
(フロム『悪について』P204)
弱さを認めることに対して、弱さへの逃避は、弱さを受け入れることで獲得する強さとは対極に位置するものである。
弱さを認められないのは、弱い原因が自分自身にあることが認められないからである。
弱さの原因は他人のせいでなければならない。
自分の責任は否定されなければならない。
悪いのは他人である。
こうして弱い立場にしがみつき、弱者の仮面をかぶって、他人への敵意を表現することになる。
惨めさを誇示するのは、憎しみを表現したいからである。
それは自分自身に向けられた敵意の表現であるのかもしれない。
「弱さを認めること」と「弱さに逃避すること」は正反対のことである。
微妙にわかりにくいことなので、そのことについて考えてみた。