ユング「晩年の思想」Ⅰ |
(ユング自伝Ⅱ P174~)
キリスト教について顕著なことは、その教義のシステムにおいて「神性なものの変容」が予期されている点にある。
第一は、神に対する不服従。
第二は、天使の堕落。
第三の決定的な神話の段階は、神が人間の形をとって自己実現を行ったことにある。
この神話は千年の間は、まったく論議の余地のないものとして続いてきた。
<キリスト教神話の破局>
二十世紀末になって、世界的な破局の概観が明らかになってきた。
それは先ず、意識への脅威の形をとって示される。
その脅威は、意識の傲慢さであり、「人間と、その行為ほど偉大なものはない」という主張である。
<善と悪>
光についで影がやってくる。
最初のあらあらしい爆発はドイツに起こった。
この悪の噴出は、キリスト教が二十世紀の間にどれ程侵食されていたかを明らかにするものである。
これに出あっては、悪を善の欠如などという楽観論によって見くびることはできない。
悪はひとつの決定的な現実となる。
婉曲な言いわけによって、この世界から悪をとりさることは、もはや不可能である。
われわれは、悪が、この世にとどまり存在するからには、いかにそれを取り扱うかを学ばねばならない。
悪に触れることは、それに屈服するという由々しい危険をそこにもたらすことになる。
従って、われわれはもはや何ものにも屈してはならない。
善に対してさえも屈してはならない。
それに屈服してしまうことが問題を引きおこすのである。
われわれは善と悪とを絶対的な対立として考えることには注意深くあらねばならない。
悪の現実の認知は、必然的に善を相対的なものと化し、悪も同様に相対化され、逆説的な全体性の半分として、両者を転換する。
善と悪はもはやそれほど自明のことでない。
すべての人間の判断の誤りやすさを考慮すると、われわれは常に正しい判断を下すとは信じ難い。
われわれは容易に誤った判断の犠牲となるだろう。
過去において、私はしばしば指摘してきたし、将来もそうするであろうが、われわれが行ったり、考えたり、意図したりした過ちは、われわれの魂にその復讐をもたらすであろう。
われわれは倫理的な決定の妥当性を、神に従うときにのみ確信することができる。
つまり、無意識の中に自発的で決定的な衝動が存在するに違いない。
われわれは場合によっては、一般に知られている道徳的な善を避け、自分の倫理的決定が要求するならば、悪と思われていることをなす自由をもっていなければならない。
われわれは対立するもののどちらにも、善にも悪にも屈服してはならない。
一般に人はあまりにも無意識のままでいるので、決定を下しうる自分自身の潜在力に、まるで気づかずにいる。
その代わりに、自分を困惑から導いてくれるものとして、外的な規律や法則などを常に探し求めている。
<自己知>
悪の問題に答えようとする人は、先ず第一に、自己知を必要とする。
その人は、どれほどの善を自分がなしうるか、どのような犯罪を自分は犯す可能性があるかを冷厳に知り、前者を現実とし後者を幻想であると看做したりしないように注意深くあらねばならない。
しかし、一般にほとんどの人は、このようなレベルで生きる準備がまるでできていない。
反面、自分自身に対して、より深い洞察をする力をもった人びとが、今日たくさんあることも事実である。
このような自己知はたいへん大切なものである。
それによって、われわれは自分の本能の存在している人間性の基盤、あるいは中核にまで接近するからである。
この中核が無意識であり、その内容である。
深い自己知は科学、すなわち心理学を必要とする。
望遠鏡や顕微鏡をつくるのに、光学の知識なしで、小手先の器用さや善意だけでつくることは誰にもできないのだ。
<神話の欠如>
人類の半分は、人間の推論によって捏造された教義をむさぼり、強く成長し、他の半分は、現代の状況にふさわしい神話の欠如に病んでいる。
キリスト教の国々は悲しい峠にさしかかっている。
つまりそのキリスト教は何世紀にもわたって、無為にすごし、その神話をいっそう発展せしめることを怠ったのである。
神話は生き、育ってゆかないかぎり、死んでしまうことを人々は知らないのだ。
われわれは、われわれが神話をこれほどまでに必要としているのに、何らの神話も助けとして生じないということを理解することもできずにいるのだ。
政治的情勢や、悪魔的とまではいわないにしろ、おそろしい科学の勝利の結果として、われわれはひそかなおそれと、暗い予感におののかされている。
しかし、われわれはそこから逃れる道を知らない。
そして、今や問題は長く忘れさられていた人間の魂の問題であるとの結論を下している人はほとんどいないのである。
<マンダラと空飛ぶ円盤>
マンダラは元型的な心像のひとつで、自己の全体性を意味する。
この円形のイメージは心の基礎の全体性を示す。
近代のマンダラは統一を求めている。
それらは心の分裂の補償、あるいは、分裂が克服されるだろうとの予期を示している。
この過程は普遍的無意識の中で生じるので、それ自身をあらゆるところに表明する。
世界中に広がっている空飛ぶ円盤の話はこの証拠である。
それらは世界的に存在する心の傾向性のあらわれなのである。
<分析治療とマンダラ>
分析治療は「影」を意識化せしめる点において、それは分裂と対立するものの間の緊張を引き起こす。
それらはそれ自身、統合の中の補償を探し求める。
適応は象徴を通して達成される。
もし、すべてのことがうまくゆくときは、解決はひとりでに、自然の中から生じてくる。
そのとき、そしてそのときのみ解決は確信に満ちたものとなる。
それは「恩恵」として感じられる。
解決は対立するものの対決と衝突のなかから生まれるものであるから、それは意識と無意識の測り難い混合であり、従って、ひとつの象徴である。
それはふたつに割れた硬貨がぴたりと合わされたものだ。
それは意識と無意識の協同作業の結果であり、マンダラの形をとった神のイメージに似たものを達成する。
ここに、マンダラは全体性の概念を示す最も単純なモデルであろうし、対立するものの戦いと調和を示すものとして心の中に自然に生じるものである。
対立するものの衝突は、最初はまったく個人的な性質のものであるが、やがて、その主観的な葛藤が普遍的な対立するものの葛藤のひとつにすぎないのだという洞察へと続く。
われわれの心は宇宙の構造と一致して作られている。
対立物を自己すなわち自分の人格の全体性の中に統合してゆくこと、これが人間の目標、あるいはひとつの目標である。
<魚の時代から宝瓶の時代へ>
宝瓶の図は人物像で魚の記号の次にあるものである。
魚の記号は二匹の魚が逆に配置されて、対立するものの結合をなしている。
水がめを持っている人は自己を表しているようだ。
人類は、かつて地球上をにぎわし今は絶えつつある他の種と同じような運命をたどるだろうか。
そうなるはずはないという理由を、生物学は提出することができないのだ。
<神話、言葉、個性化の過程>
どんな科学も神話にとって代わることはできないだろうし、神話はどのような科学からも作りあげることはできない。
神話をわれわれがつくり出すのではなくて、むしろ、神話がわれわれに神の言葉として語りかけるのである。
言葉がわれわれに生じてくるのだ。
始めはすべてのことが押しよせ、すべてのことが自分に対しておこり、そして、その後大きい努力を払った後に、その人は自分自身にとって相対的自由の領域を獲得し、保持することにやっと成功する。
このような仕事への道をかちとったとき、そして、そのときにかぎり、その人は自分の本能的な基盤に直面しつつあることを認識しうる立場にある。
この本能的な基盤は最初からその人にそなわっているものであり、どれほどそれを無きものにしようと欲しても、無くすることのできないものである。
人の起源は決して単なる過去ではない。
それは人間の存在の常に下層をなすものとして、彼と共に生きてきたものである。
人間の意識は、その身体的なものによるのと同様に、それによっても形づくられてきたのである。
これらの事実が、人間を内からも外からも圧倒的な力をもって攻めたてる。
人はそれらを神性という観念によってまとめ、その働きを神話の助けをかりて記述する。
そして、その神話を「神の言葉」として解釈する。
つまり、「彼岸」からの神意の啓示、あるいはインスピレーションとして解釈するのである。