フロム「自由からの逃走」<要約(3)>【第3章】 |
1.中世的背景とルネッサンス
中世社会では近代的な意味の自由はなかった。
しかし中世の人間は孤独ではなく、孤立はしていなかった。
中世社会は個人からその自由を剥奪しなかった。というのは、「個人」はまだ存在しなかったからである。
人間はまだ第一次的な絆によって世界と結ばれていた。
社会機構と人間のパースナリティは、中世末期に変化した。
都市の中産階級にとって、新しい発展はその伝統的な生活様式を脅かすものであった。
(ルネッサンス)
中世的な社会機構が次第に崩壊した結果、近代的な意味の個人が出現した。
しかし同時に人々が失ったものがある。それは中世の社会機構が与えていた安定感と帰属感とである。
彼らはいっそう自由になったが、また同時にいっそう孤独になった。
ルネッサンスは富と力に満ちた上層階級の文化であった。
大衆はかつての安定を失い、力あるものによって操られる群衆となった。
個人は激しい自己中心主義と、力と富へのあくことのない欲望のとりこになった。
その結果、自分自身に対する健全な関係も、安定感や信頼感も毒された。
自分自身もまた他人と同様に、自分にとって利用すべきものとなった。
新しい自由は、彼に二つのことをもたらした。
- 一つは、力が増大したという感情と、
- それと同時に、孤独と疑惑と懐疑主義との増大、そして不安の感情の増大である。
敵意に満ちた世界の中で、この隠れた不安はルネッサンス時代の「名誉を求める激しい願望」の発生を説明している。
人生の意味が疑わしくなり、他人に対する関係、また自分自身に対する関係が安定感を与えなくなると、その時こそ「名誉」が疑いを沈黙させる一つの手段となる。
個人の不安を解消するこの方法は、名声を獲得する手段を実際に持っていた社会層にだけ許されるものであった。
(ルネッサンスの精神と、宗教改革の精神)
ルネッサンスは富裕な強力な少数者が支配する社会であった。
他方、宗教改革は、「都市の中産および下層階級」と「農民」の宗教であった。
西欧における近代資本主義の発達の主軸となったのは「都市の中産階級」であった。
したがって、プロテスタンティズムやカルヴィニズムが「都市の中産階級」の性格構造にどのような影響を与えたか、という問題に注意を集中しよう。
中世的社会では、職人や商人の地位は比較的安定していたが、中世末期になるとそれは次第にくつがえされ、16世紀には完全に崩壊した。
ギルドの発展と結びついて職人たちの地位は悪化していった。
商業については、大商事会社がますます強力になり、独占の傾向をおびていった。
資本の役割は、工業においてもまた増大していった。
資本主義の経済的発展にともなって、心理的雰囲気にも著しい変化が起った。
不安な落ち着かない気分が生活をおおうようになった。
近代的な意味の時間観念が発達しはじめた。
仕事がますます至上の価値を持つものとなった。
能率という観念がもっとも高い道徳的な価値の一つと考えられるようになった。
同時に富と物質的成功を求める欲望が人々の心を奪う情熱となった。
中世的社会組織は崩壊し、それとともに社会組織が与えていた安定性も破壊された。
個人は独りぼっちにされた。
すべては自らの努力にかかっており、伝統的な地位の安定にかかっているのではない。
資本や市場や競争の役割が増大したことは、都市の中産階級の性格に変化を与え、動揺や孤独や不安にかられるようになったのである。
資本が決定的に重要なものになったということは、経済が超人間的な力によって決定され、ひいては人間の運命までが、それによって決定されるということを意味した。
資本は「召使いであることをやめて、主人となった」
しかし資本主義にはもう一つの面がある。
すなわち個人を解放したということである。
人間は自己の運命の主人となり、危険も勝利もすべて自己のものとなった。
個人の努力によって、成功することも、経済的に独立することも可能になった。
(議論のまとめ)
個人は経済的政治的な束縛から自由になる。
彼は新しい組織の中で独立した役割を果たせば、積極的な自由を手に入れることができる。
しかし同時に、かつては安定感と帰属感を与えていた絆からの解放によって世界は恐怖に満ちたものとなる。
仲間との関係もすべて心の奥底には競争心が巣くっていて、敵意に満ちた空々しいものとなった。
彼は自由になった。
しかし、孤独で孤立し、周囲からおびやかされているのである。
富も力もなく、また他人や世界と一体になっていた感じも失って、彼は自己の無力さと頼りなさに押しひしがれる。
新しい自由は、動揺、無力、懐疑、孤独、不安の感情を生みだす。
もし個人がうまく活動しようと思えば、このような感情は和らげられなければならないのである。
2.宗教改革の時代
このようなとき、ルッター主義とカルヴァニズムがあらわれた。
新しい宗教は、「都市の中産階級」や「貧困階級」の、そして「農民」の宗教であった。
新しい宗教は、これらの人々にいきわたっていた無力と不安の感情と同時に、自由と独立という新しい感情も表現していた。
その教義は、不安と戦うための解決策を提供した。
(ルッターという人物について)
ルッターは、人間としては「権威主義的性格」の典型的な人物であった。
子どものときに、度を超えて厳格な父親に育てられ、ほとんど愛情や安心感を経験しなかった。
彼のパースナリティは、権威に対する絶え間ない闘争にさいなまれていた。
彼は権威を憎み、それに反抗したが、一方同時に権威にあこがれ、それに服従しようとした。
彼の全生涯を通じて、彼が反抗した権威と、彼が称賛した権威とが常に存在している。
彼は極度の孤独感・無力感・罪悪感に満ちているとともに、激しい支配欲を持っていた。
彼は強迫的性格にのみ見られるような激しい懐疑に苦しめられ、内面的な安定を与えるもの、この不安の苦しみから救ってくれるものを絶えず求めていた。
彼は他人を嫌い、特に群衆を嫌い、自分自身をも、人生をも嫌っていた。
そしてこの憎悪から、愛されたいという激しい絶望的な衝動が生まれた。
彼の全存在は、恐怖と懐疑と内面的な孤独に満ちていた。
このような彼のパースナリティの基礎によって、彼は心理的に同じような状態にあった社会集団のチャンピオンになることができたのである。
われわれの考えでは、ルッターの神に対する関係は人間の無力にもとづいた服従の関係である。
彼自身は、この服従は自発的であり、恐怖からではなく愛から生まれるものだと言っている。
もしそうであれば、それは論理的には服従ではないということもできよう。
しかし心理学的には、彼のいう愛や信仰が実は服従であることが彼の思想全体から明らかである。
<ルッターの宗教改革>
ルッターの神学は、新しい有産階級に憤りを感じ、資本主義の勃興によって脅威にさらされ、無力感と個人の無意味感とに打ちひしがれた、中産階級の感情をあらわしていた。
(ルッターの体系の二つの面)
- 一つは、宗教的問題で人間に独立性を与えたこと
- もう一つは、個人にもたされた孤独と無力とである。
(本書では意識的に一面的な見方をして、ルッターやカルヴァンが「人間の根本的な悪と無力を強調した点」を取り上げている。)
「人間は自らの努力によって救われることはできない。 しかし人間はもし信仰を持っているならば救済を確信することができる」。
ルッターの教義に見られる“確実性”への強烈な追及は、純粋な信仰の表現ではなく、耐えられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。
ルッターは、神への絶対的な服従のうちに確実性を求めたのである。
ルッターの神に対する関係は完全な服従であった。
ルッターの“信仰”は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。
ルッターが権威を恐れ、また権威を愛したことは、彼の政治的信念にも表れている。
<カルヴァンの神学>
カルヴァンにとって、宗教は、人間の無力さに根ざすものであった。
彼の思想全体の中心テーマは、自我の否定と、人間的プライドの破壊である。
この世を軽蔑する人間のみが、来世に対する準備に自己をささげることができるのである。
カルヴァンは教える。
- 我々は自己を否定しなければならない。自我の否定こそ神の力に頼るための手段である。
- 人は、自分が自らの主人であると考えてはならない。
- 人間は、徳をそれ自身のために求めてはならない。
カルヴァニズムでは、努力の意味は宗教的教義の一部であった。
成功は神の恩寵のしるしとなり、失敗は罰のしるしとなった。
絶え間ない努力や仕事への衝動は、人間の無力さについての根本的な確信にもとづく心理的には当然の結果である。
「努力」や「仕事」を目的それ自体と考えるこの新しい態度は、中世末期以後に人間に起った最も重要な心理的変化ということができよう。
<敵意と反感>
中産階級が激しい敵意を持っていたということは驚くにあたらない。
敵意と羨望はつのりながら、しかし中産階級の人々はそれを直接表現することができなかった。
それは抑圧されなければならなかった。
敵意を抑圧することはただ意識することを除くだけであり、敵意そのものを取り除きはしない。
その上、閉じ込められた敵意は、直接的には表現されないまま<合理化され、変装した形をとって>パースナリティ全体に、他人に対する関係に、また自己に対する関係に行きわたるまで増大した。
(敵意や嫉妬の神への投影)
ルッターとカルヴァンは、人間的にみて、歴史上の指導的人物、特に宗教的な指導者の中で最も憎しみにとらえられた人物であったというだけでなく、敵意でいろどられた彼らの教義は、抑圧されて激しい敵意にかりたてられていた人々にだけ訴えることができた。
カルヴァンの教義のうちに見出される専制的な神の概念は、中産階級自身の「敵意」と「羨望」を反映したものである。
(敵意の他人への表現)
敵意や憤りは他人に対する関係のうちにも表現された。
その主要な形は「道徳的な憤り」であった。
下層・中産階級の人々は、富と力をもつ人間に対して実際には羨望を持っていたが、この憤りと羨望を、道徳的な「公憤」の言葉や、これら上層の人間たちは永遠の苦悩を受けて罰せられるであろうという信念によって合理化していた。
(敵意の自分自身への表現)
敵意が表現されるもう一つの方法は、自分自身へ向けられるものである。
ルッターやカルヴァンは、熱心に人間の罪悪性を強調し、あらゆる道徳の根底として、「自己卑下」と「謙遜」を教えた。
「自己非難」や「自己卑下」の心理的メカニズムは、激しい憎悪に根ざしている。
憎悪は外界に向けられず、自分自身に対して向けられている。
他人に対する敵意はしばしば意識的でありはっきり表現されるが、自分自身に対する敵意は普通無意識的であり、間接的な合理化された形で表現される。
- その一つは、自己の罪悪性と無意味さを強調することである。
- もう一つは、良心とか義務とかいう仮面をかぶって表れるものである。
「良心」とは、自分自身によって、人間の中に引き入れられた<奴隷監督者>にほかならない。
良心は、人間が自分のものと信ずる願望や目的に従って行為するようにかりたてるが、その願望や目的は、実は外部の社会的要求の内在化したものである。
良心は、峻厳残酷に彼をかりたて、快楽や幸福を禁じ、彼の全生涯をなにか神秘的な罪業に対する償いとする。
<第3章のまとめ>
中世的社会(封建社会)の崩壊は、個人を自由にし、そして個人を孤独に陥れた。
- 人間は以前に享受していた“安定性”と“帰属感”を奪われ、外界からは解放されたが、彼は孤独となり不安に襲われた。
- しかし彼はまた自由となり、自己の主人となることができた。
もっとも成功した階級だけが、台頭する資本主義から利益を獲得し、実際に富と力を与えられた。
下層階級や都市の貧困階級、とくに農民たちは、自由への新しい追求にかりたてられて、熱烈な願望にもえていた。
彼らには失うべきものはほとんどなかったが、獲得すべき多くのものを持っていた。
しかし我々の主要な関心は「中産階級」の反応にある。
資本主義の発生は、中産階級には大きな脅威であった。
自由は力と自信よりも、むしろ孤独と個人の無意味さをもたらした。
そのうえ彼は、富裕階級の奢侈と権力とに燃えるような憤りを持っていた。
プロテスタンティズムはこの無意味さと憤りの感情とを表現していた。
それは神の絶対的な愛への信頼を破壊し、自己自身と他人を軽蔑し信頼しないことを教え、人間を目的ではなく手段にしたのである。
新しい宗教的原理は、中産階級の一般の人々が感じていたことをただ表現したばかりではなく、その態度を合理化し体系化することによってますます拡大し強化した。
しかし新しい宗教はそれ以上のことをした。
すなわち個人にその不安と取り組む道を教えた。
自己の無力さと人間性の罪悪性を徹底的に承認し、彼の全生涯をその罪業の償いと考え、極度の自己卑下と絶え間ない努力によって、その疑いと不安とを克服することができると教えた。
また“完全な服従”によって、神に愛されることができ、少なくとも神が救うことに定めた人間に属するという希望を持つことができると教えた。
プロテスタンティズムは、おびやかされ、くつがえされ、孤独につき落とされた人間が、自らを新しい世界へと方向づけ、新しい世界と関係を結ばなければならないと望んだ要求に対する解答であった。
この新しい性格構造が、こんどは逆に社会的経済的な発展をさらに推し進める重要な要素となった。
このような性格構造に根ざした、
- 仕事への衝動、
- 節約しようとする情熱、
- たやすく超個人的な目的のための道具となろうとする傾向、
- 禁欲主義、
- 義務の強制的意識、
という性質こそが、資本主義社会の生産的な力となった性格特性であり、それなしには近代の経済的社会的発達は考えられない。