福島原発 いま何を問われているのか |
本当にこれからどうなってしまうのでしょう……
これまで人類が経験したことがない事態だけに、ただ怖れおののくばかりです。
現場で必死に対応されている方々には、私も深く頭を下げさせていただき、心からお礼を申し上げたいと思います。
いったい何が問題だったのでしょうか。
「問題を放置して、先送りし、本当にやらなくてはならないことをしなかったこと」、たぶんその答えが出たということなのでしょう。
(私も組織人の一人として、反省しなければならないと思う反面、そのようなことは身近なところで大いにありうることだろうと思ってしまうのです。)
でもいまさらそんなことをいっても遅いです。
不安、畏れ、後悔、絶望、……言葉では言い表すことができないような何かが、心の深淵から私を揺さぶってきます。
もう取り返しがつかないところまで来ているのかもしれません。
人類が本当は侵してはならない領域に、すでに深入りしすぎてしまっているのかもしれません。
原発事故から、私たちはいったい何を問われているのでしょうか。
そうです、私が感じていることは、内田樹先生がツイッターやブログでおっしゃっているようなことなのです。
「原発は人間の欲望に奉仕する道具だ」
そういう話型にすべてを落とし込むことによって、私たち日本人は原子力を「頽落し果てて、人間に頤使されるほどに力を失った神」にみせかけようとしてきたのである。
もちろん、そうではなかった。
だから、私たちはいま「罰が当たった」という言葉に深く頷いてしまうのである。
自分たちがこれまで「瀆聖」のふるまいをしてきたことを、私たちは実は知っていたからである。
そう、「罰が当たった」という言葉が、やはり腑に落ちるのです。
日本人がかかえているすべてのシステム上の問題は、実は霊的な「宿題」を果たしていないことについての「回答」なのです。日本のエスタブリッシュメントが「大本営」と「参謀本部」を再演してみせているのは、それがまだ呪鎮されていないからです。「ほんとうの物語」がまだ語られていないからです。
抑圧されたものは症状として回帰する。僕たちが今しなければいけないのは、実は戦争と死者たちについておわりなく物語ること。それによって魂を鎮めることなのです。
これら内田先生のメッセージに、私も深く共感してしまいます。
たぶん「経済の復興」などとは、次元が違う問題なのです。
人間そのものを復興できるかどうか、そのことが問われているような気がしてなりません。
(「たかが経済!」と、いつか藤原正彦先生もおっしゃっていました。)
私たち日本人が心から反省し、人知人力をこえる何ものかの力を畏怖し、ひざまずき、本当に真摯にかつ謙虚に頭を下げたとき、そして私たち日本人がこれからの生き方を真剣に変えていこうと決心し、本当の祈りをささげたときにはじめて、神の怒りが鎮まるのかもしれません。
たぶん今のままでは、神の制裁の炎はまだ当分納まらないのではないか、そんな気がしています。