愛の性質について(「自由からの逃走」から)<フロムを読む⑪> |
「自由からの逃走」(P130~)
近代人は、客観的には自己以外の目的に奉仕する召使となりながら、しかも主観的には、自分の利益によって動いていると信じている事実を、一体われわれはどのようにして解決できるであろうか。
答えがどのような方向にあるかを示すためには、利己心という心理的に複雑な問題を考えなければならない。
ルッターやカルヴァン、またカントやフロイトの思想の根底にある仮定は、
-「利己心」と「自愛」とは同じものである-という考えである。
すなわち、
- 他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、
- 他人に対する愛と、自己に対する愛とは、互いに相容れない、という考えである。
これは、愛の性質について、理論的に誤った考えである。
愛は、もともとある特定な対象によって「惹き起こされる」ものではない。
それは人間の中に潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを現実化するにすぎない。
憎悪は破壊を求める激しい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。
すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の"幸福"、"成長"、"自由"を目指す、積極的な追求であり、内面的なつながりである。
それは原則として、我々をも含めたすべての人間や、すべての事物に向けられるように準備されている。
排他的な愛というのは、それ自身一つの矛盾である。
確かに、ある特定の人間が明らかに愛の「対象」となることは偶然ではない。
このような特定の選択を条件づける要素は、非常に数が多く、また非常に複雑で、ここで論じることはできない。
しかし重要なことは、ある特殊な「対象」への愛は、一人の人間のうちのもやもやした愛が、現実化し集中化したものにすぎないということである。
それは、ロマンティックな恋愛観のいうように、人間が愛することのできるのは、この世でたった一人しかいないとか、そのような人間をみつけることが人生の大きな幸運であるとか、その人間に対する愛は他のすべてのものから退くことであるとかいうようなものではない。
ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、まさにそのことによって、それは愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着であることを示している。
愛に含まれる根本的な肯定が愛人に向けられるとき、それは愛人を、本質的に人間的な性質の具現したものと見ているのである。
一人の人間に対する愛は、人間そのものに対する愛である。
人間そのものに対する愛は、しばしば考えられているように、特定の人間に対する愛の「あとから」抽象されたものではなく、また特定の「対象」との経験を拡大したものでもない。
人間そのものに対する愛は、もちろん発生的には、具体的な個人との接触によって獲得されるものであるが、それは特定の人間に対する愛の前提となっている。
こうして、原則的には、私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。
私自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受け入れる基本的な準備と能力とが存在していることに根ざしている。
このような準備を持つものは、自分自身に対しても、それを持っている。
他人しか「愛する」ことができないものは、まったく愛することはできないのである。
利己主義と自愛とは、同一のものではなく、まさに逆のものである。
利己主義は貪欲の一つである。
すべての貪欲と同じくそれは一つの不充足感を持っており、その結果、そこには本当の満足は存在しない。
貪欲は底知れぬ落とし穴で、決して満足しない欲求をどこまでも追求させて、人間を疲れさせる。
よく観察すると、利己的な人間は
・いつでも不安気に自分のことばかり考えているのに、決して満足せず、常に落ち着かず、
・十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われるとかという恐怖にかりたてられている。
・彼は自分よりも多くのものを持っている人間に、燃えるような羨望を抱いている。
・さらに綿密に観察し、特に無意識的な動的な運動を観察してみると、この種の人間は、根本的には自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪を持っていることがわかる。
この一見矛盾した謎は容易に解くことができる。
利己主義は、まさにこの自愛の欠如に根ざしている。
自分自身を好まない人間や、自分自身をよしとしない人間は、常に自分自身に関して不安を抱いている。
彼は純粋な好意と肯定の基盤の上にのみ存在する内面的安定を持っていない。
彼は自分自身に気を使い、自分のためにあらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見張らなければならない。
彼には根本的な安定と満足とが欠けているからである。
これと同じようなことはナルシシズム的人間にも当てはまる。
彼は自分自身のために物を得ようと腐心するかわりに、自分自身を称賛することに気にかけている人間である。
このような人間は表面的には自分自身を非常に愛しているように見えるが、実際は自分自身を好んでいないのであり、彼らのナルシシズムは(利己主義と同じように)自愛が根本的に欠けていることを無理に償おうとする結果である。
フロイトは、「ナルシス的人間は、彼の愛を他人から退けて、それを自分自身に差し向けている」と指摘した。
この説の前半は正しいが、後半は誤っている。
「ナルシス的人間は、他人をも、自分をも愛していない」のである。