ナルシシズムを自己愛と訳すのは間違っている |
ナルシシズムは克服されるべきものであり、自己愛は獲得されるべきものである。
ナルシシズムは自分の関心と情熱がすべて自分自身の人格に向かっている指向のことである。言い換えればナルシシズムは自己を充足させることの欲求に支配されている状態である。
ナルシシズムの正確な訳語は見出せないが、少なくとも愛の一種であるかのように誤解される自己愛と訳すよりは(同じものではないが)「自己中心主義」「利己性」とでも訳したほうがよほどいい。
「自己のナルシシズムを克服することは人間の目的である」
これはあらゆる偉大なヒューマニズムの宗教の根源的教義をひとつの言葉に要約したものである。
仏陀の教義では、人間は妄想から覚めて自己の真実、すなわち病気、老齢、死についての現実や、身分不相応な欲望は充足しえないという事実を認識して、はじめてその苦悩から自己を解放しうるということになる。
「悟りをひらいた人」とは、自己のナルシシズムを克服し、完全に悟りの境地に達した人のことなのである。人間は破壊しがたい自我の妄想を取り去ることさえできれば、そしてまた、あらゆる欲望の対象とともに自我から解脱することができさえすれば、その時こそ、その人の前には世界がひらかれ、世界と完全に関係をもつことができるのである。心理学的にはこの悟りを得る過程は、世界と関与することによって、自己のナルシシズムを置換することと同じなのである。
人間の完成は、かれが個人のナルシシズムならびに集団のナルシシズムから完全に脱却することによって成就される。
(「悪について」エーリッヒ・フロム)
これに対し、真の自己愛は獲得されるべきものである。
だが自己愛というと今日のほとんどの場合、利己主義(自分勝手)と同意語として使われているようである。この誤解のために多くの人が不幸のままでいる。
愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。私自身も他人と同じく私の愛の対象になりうる。もしある人が生産的に愛することができるとしたらその人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。
利己主義と自己愛とは同じどころかまったく正反対である。利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく愛さなすぎるのである。いや実際のところ彼は自分を憎んでいるのだ。利己的な人は他人を愛することができないが、同時に自分自身を愛することができないのである。
(「愛するということ」エーリッヒ・フロム)
(八嶋聡)