「アダムとイブの物語」心理学的分析(その2)<フロムを読む⑥> |
<「生きるということ」P166~>
「持つ様式」において、罪は不服従であり、それは「罪悪感→罰→新たなる屈服」となって克服される。
「ある様式」において、罪は解消されていない疎隔であり、それは理性と愛の十全な開花によって、一体化によって克服される。
「堕落の物語」(アダムとイブの物語)はどちらにも解釈できるが、それは物語自体が権威主義的要素と解放的要素との混合であるからである。
しかしそれぞれにおける「不服従」および「疎外」としての罪の概念自体は完全に対立するものである。
罪は「持つ様式」においては不服従であるが、「ある様式」においてはまったく違った意味を持つ。
神は人をエデンの園に置いて、生命の木からも善悪を知る木からも取って食べてはならない、と警告した。
「人が一人でいるのはよくない」と考えて、神は女を創造した。
男と女は一体とならなければならない。
二人とも裸であったが、「彼らは恥ずかしいとは思わなかった」
この論述はふつう昔ながらの性的習慣、すなわち、生来男と女は性器を露出すれば恥ずかしく思うものだと想定する慣習の立場から解釈されている。
しかしこれが原文の言おうとするすべてであるとは、とうてい考えられない。
もっと深い所でこの論述に含まれていると思われる意味は、男と女は互いに総体として直面したが、恥ずかしいとは思わなかった、というよりは思うことができなかったのであって、それは彼らが相手を他人として、切り離された個人としてではなく、<一体>として経験したからだ、ということである。
この前人間的状況は、堕落以後にラディカルな変化を遂げ、男と女は十全な人間、すなわち理性、善悪の意識、切り離された存在としてのお互いの意識、自分たちは本来の一体性をそこなわれて互いに他人となったという意識、を持った人間となる。
互いに近くにいるが、切り離され、隔てられていると感じる。
彼らはこの世の最も深い恥ずかしさを覚える。
すなわち、仲間と<裸で>向かい合い、同時に相互の疎隔を経験し、お互いを切り離す言いようのない深淵を経験するという恥ずかしさを。
「彼らはいちじくの葉を腰に巻いた」
そして十全な人間としての出会い、すなわち互いに相手を裸として見ることを避けようとした。
しかし恥ずかしさは、罪悪感と同様に隠すことによって除去することはできない。
彼らは互いに愛の手を差し伸べることはしなかった。
おそらく肉体的には互いに欲したであろうが、肉体的結合は人間の疎隔をいやすことはない。
彼らが互いに愛し合っていないことは、相互の態度に暗示されている。
つまり、イブはアダムを守ろうとしないし、アダムは罰を免れるために、イブを罪を犯した者として弾劾し、彼女を弁護しようとはしない。
彼らが犯した罪は何だろう。
切り離され、孤立し、利己的で、愛の結合行為によって分離を克服することのできない人間として、互いに向かい合うことである。
この罪は、私たちの人間的存在自体に根ざしている。
生まれつきの本能によって生活を決定される動物の特徴である自然との本来の調和を奪われ、かつ理性と自意識を与えられているので、私たちはほかのすべての人間から完全に切り離されていることを経験せざるをえない。
カトリックの神学においては、互いに完全に切り離され、隔てられて、愛による橋渡しもないというこの存在状態が<地獄>の定義となっている。
それは私たちには耐えられない。
私たちは絶対的な分離という拷問を、何らかの方法で克服しなければならない。
屈服によって、あるいは支配によって、あるいは理性と意識を沈黙させようとすることによって。
しかし、これらの方法はすべて一時的に成功するだけであって、真の解決への道をふさぐ。
私たちをこの地獄から救う方法はただ一つ、自己中心性の牢獄を出て、手を差し伸べ、世界と"一体となる"ことだけである。
もし自己中心的な分離が基本的な罪であるとするならば、その罪を償うのは愛の行為である。
分離の罪は不服従の行為ではないので、それは"許される"必要はない。
しかし、それが"癒される"必要は確かにある。
そして罰の受容ではなく、愛がそれを癒す要因なのである。