フロムが示す希望 |
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2016年 12月 31日
<『破壊』結び⑤> フロムが『破壊』で採った立場は、人間が作り出した一見宿命的な環境の網の目から逃れる人間の能力に関する、”合理的な信念”の立場である。 それは”楽観主義者”の立場でもなければ、”悲観主義者”の立場でもない。 最終的な破局を免れる人間の潜在的な能力に”合理的な信念”を抱くラディカルな人たちの立場である。 このヒューマニズム的ラディカリズムは物事の根本にまで達するもの、それゆえ物事の原因にまで達するものである。 それは人間を幻想の鎖から解き放すことを求める。 それはわれわれの社会の根本的な変革が必要であるということ、それも私たちの経済的、政治的構造においてばかりではなく、私たちの価値や、人間の目的の概念や、個人的な人間同士の接触においても必要なのだということを、当然のこととして仮定するのである。 信念を持つということは、何かを思い切ってやること、考えられないことを考えること、しかし現実的に可能なことの限界内で行動することを意味する。 それは毎日救世主の出現を期待しながら、たとえ定められた時に救世主が現われなくても落胆しない、という逆説的な希望である。 この希望は受動的ではなく、また気長なものでもない。 むしろこの希望はせっかちであり、能動的であって、現実的な可能性の領域内におけるあらゆる行動の可能性を求めている。 人間の自分自身の個人的成長と解放に関する限り、それはまったく受動的なものではない。 たしかに人間が個人として発達するためには、社会構造によって決定される限界がある。 今日の社会状況の中では、いかなる個人的な変革を達成することも容易な状況ではない。 またある人間が個人的に変革することについて、それを望ましいことでさえないと忠告する自称ラディカリストたちもいるが、それは彼らの革命的イデオロギーを、彼ら自身が内的に変革しないことの個人的な抵抗の口実に利用しているだけなのである。 今日の人類の状況はあまりにも重大なので、もはや破壊に引きつけられている扇動政治家たちに耳を傾けていることはできない。 あるいは頭脳だけを使って心は凍りついてしまっている指導者たちに耳を傾けていることはできない。 (希望) ”生命への愛”は人間に与えられている最も貴重な資質である。 われわれの合理的な信念に基づく批判的でラディカルな考え方は、人間のその最も貴重な資質と結びついた時に初めて、その実を結ぶことであろう。 そうフロムは信じる。 それがフロムの示してくれた希望である。 (『破壊』参照)
by omoinoha
| 2016-12-31 09:17
| エーリッヒ・フロムを読む
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