”楽観主義と悲観主義の本性”についての概念 |
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2016年 12月 29日
<『破壊』結び③> 楽観主義とは疎外された形の信念であり、悲観主義とは疎外された形の絶望である。 もし人間とその将来に対してほんとうに反応するなら、すなわち”関心”と”責任”を持って反応するなら、信念あるいは絶望によってしか反応できないはずである。 合理的信念は合理的絶望と同様に、人間の生存に関連したあらゆる要因についての、最も完全で批判的な知識に基づいている。 合理的信念 ⇔ 楽観主義(=疎外された形の信念) 合理的絶望 ⇔ 悲観主義(=疎外された形の絶望) 人間に対する合理的な信念の根拠は、子供の救済の現実的可能性の存在である。 合理的な絶望の根拠は、このような可能性が見られないという知識である。 これに関連して一つの点を強調する必要がある。 たいていの人びとは、人間が向上するという信念を、非現実的なものだとしてあっさりと投げ出してしまう。 しかし彼らは、絶望もしばしば同じように非現実的であることに気づかない。 「人間はいつも殺し屋だった」と言うことはたやすいが、この言葉はやはり正しくない。 というのは、その言葉は複雑な破壊性の歴史を考慮に入れていないからである。 同じように「他人を搾取するのはまさに人間の本性である」と言うこともたやすいが、この言葉も事実を無視して歪めている。 要するに「人間の本性は悪である」という言葉は、「人間の本性は善である」という言葉以上に現実的であるとは決して言えない。 しかし「人間の本性は悪である」という方がずっと言いやすいのであって、人間の悪さを立証することを望む人は誰でも容易にその信奉者を見い出すのである。 しかし非合理的な絶望をまき散らすことは、すべての虚偽がそうであるように、それ自体が破壊的である。 それは勇気を失わせ、人びとを混乱させる。 非合理的な信念を説いたり、偽りの救世主の到来を告げることも、破壊性においてはほとんど劣らない。 それは人を惑わせ、麻痺させるのである。 大多数の人びとの態度は、信念の態度でもなければ絶望の態度でもない。 不幸なことに、人間の将来への完全な無関心の態度なのである。 そしてまったく無関心でない人びとの場合は、”楽観主義”あるいは”悲観主義”の態度なのである。 (『破壊』参照)
by omoinoha
| 2016-12-29 09:34
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