動機、それは無秩序に対する異常なほどの恐怖である <ウォルフレンを読む(20)> |
”動機”を探ることでこれまで見えなかったいろいろなことが明らかになってくる。
しかしフロムが述べていることだが、行動の動機に触れることは”抵抗”を呼び起こすことになる。
<抑圧と抵抗>
人間は、もし彼が抑圧しているものに誰か別の他者が触れたら、彼は他者のアプローチに対して”抵抗”する。
彼は無意識に抑圧しているものの発見に対して防衛しているのであって、自分では抑圧しているものも抵抗していることも意識していない。
彼は自分が抑圧している衝動が他人に知れたとしたら、罰せられ、愛されなくなり、あるいは恥をかかされるのではないかと恐れている。
彼は自分が抑圧している自尊心や自己への愛が、自分自身に知られることを恐れている。
抑圧されたものに触れると抵抗が固められてゆくことは、日常生活からの例でもたくさん観察できる。
・「子どもたちをそばに置きたいのは彼らを所有し、支配したいからだ。それほど彼らを愛しているのではない」と言われて憤激の反作用を起こす母親……
・「娘の処女性を気づかうのは、娘に対する彼自身の性的関心のためである」と言われた父親……
・「政治的信念の背後にある欲得の関心」を指摘されたある種の型の愛国者……
・「そのイデオロギーの背後にある個人的な破壊衝動」を指摘されたある種の型の革命家……
実際、他人の行動の動機を問題にすることは、礼儀上最も尊重されているタブーの一つを破ることになる。
そして他人の動機には触れないというマナーは、相手の攻撃の高まりを最小限にするという機能を持っているので、これは非常に必要なタブーなのである。
(以上はフロム『破壊』を参照)
それでもなお動機を見定めることは有益である。
日本の権力者の動機はいったい何であるのか?
-----
(読書ノート)
ウォルフレン・著 『日本/権力構造の謎』 (14章)支配力強化の一世紀
じつは日本の権力者たちは異常なほどの恐怖感の継承者なのである。
彼らには政治の世界の儚さに対する恐怖があったと感じられる。
どこの国の支配エリートも無秩序を恐れるが、日本の支配エリートは異常なほどその恐れに取りつかれている。
権力者が反対を恐れるのは、現行の秩序のもろさを強く感じているからである。
このこと自体は驚きではない。
一貫して固く守られ安心感をもたらすような法的な枠組みがなく、その場しのぎの政治的便宜を超越する確実性もないとなれば、秩序を持続させる道は力関係だけとなる。
日本の社会の秩序は普遍的な原理、たとえば信仰や宗教によって統制されていないので、社会が不安定になる要因の予測がつかない。
日本の支配エリートは社会が不安定になることについて始終警戒している必要がある。
予測のつかないものはなんであれ直接彼らの安全を脅かすので、彼らは西洋の支配エリート以上に無秩序を恐れているのである。
無秩序を異常なまでに恐れるから、秩序の維持が彼らの究極の目的にならざるを得ないのである。
日本の権力はそのもともとより“正統性”の問題を抱えている。
そこで日本主義的なイデオロギーによって日本民族の“単一性”と”調和”を引き合いに出し、権力を正当化しようとする。
しかしこの”文化重視”の弁明だけでは“正統性”の問題をすべての国民に納得させることはできないので、権力者たちは不安を完全にぬぐい去ることはできない。
彼らは”調和”が強制されなければならないことを知っている。
法や原理によって承認されていない正統性の問題にフタをし続けられるかどうかは、社会秩序を維持できるかどうかにかかっている。
(権力者の動機に「無秩序に対する異常なほどの恐怖」があるという指摘は重要である。)
-----