ザ・”システム” <ウォルフレンを読む(19)> |
(たとえば”同調圧力”はその最たる一つである。)
個々人のいかなる力よりはるかに強い力を働かせている日本社会の政治的な仕組みの存在を、日本人はいつも念頭におかねばならない。
その仕組みを変えるには、民主的な過程に訴えるのが理想的だということについて、日本人ははっきりとは認識していないのである。
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(読書ノート)
ウォルフレン・著 『日本/権力構造の謎』 (2章)とらえどころのない国家
<ウォルフレンが”システム”と表現したこの国の権力構造>
”国家”でもなく、”社会”でもなく、それにもかかわらず日本人の生き方を決定する仕組みが存在する。
また、誰が誰に服従するかを決定する仕組みが存在する。
これらの仕組みを指すものにふさわしい言葉として、ウォルフレンはあえて”システム”と表現することにした。
一つの政治組織として日本を述べる時には、この”システム”という言葉が非常に有効だと思われる。
”システム”の上部では、官僚、天下りして民間企業の最高幹部に転じた元官僚、官僚出身の政治家、官僚化した財界指導者が渾然一体となり、親密につき合いながら経済全体を監督し、社会を管理している。
”官僚”という言葉を、”管理者”(アドミニストレーター)と置きかえてみれば、官僚、政治家、企業家などの峻別が日本の社会ではほとんど存在しないことが分かる。
こうした日本に特有な人びとを、本書では”管理者”(アドミニストレーター)と呼んでいる。
<統制される産業界>
日本の産業界は厳格に統制されている。
企業グループの各メンバー企業は、業種ごとに重なり合うギルドのように組織されている。
(ただしここでも階層制の構造がとられている)
不文律に従うことは義務になっているから、自社の政策決定も自由にはできない。
個々のメンバー会社が規律を乱したり、他のメンバーが良しとすることを理解しない場合には、この産業組織体がまとまって制裁を加えるという、超法規的な権力をもつ。
ただし通常は、”不快の意”を示す軽微なサインが出されるだけで、強制破産といった究極の制裁措置がとられることは稀である。
<相互抑制>
”システム”において専制君主はどこにも見当たらないし、ジョージ・オーウェルの『1984年』にあるような、いつも目を光らせているビッグ・ブラザーがいるわけでもない。
もし”システム”の構成員でその役割(=専制君主)を演じてみたいという野望を持つ者がいようものなら、たちまちにして他の構成員が一団となって反発することになる。
構成員それぞれにとっては、”システム”において自己の力を保つことが最優先事項である。
自己の勢力の維持は、どれか一つの構成員が他の構成員を支配できるほど強い力を得ないよう、始終、抑制しあい、相手をよく調べ、構成員間で互いに介入し合うことによって成し遂げられる。
あの戦前(1930年代)のように力のバランスがくずれた時には、事が取り返しのつかない悪い方向にいってしまうことがあるのを、苦い経験を通して日本人は知っている。
<麻痺した超大国>
”システム”はとらえどころがない。
西欧諸国の人間が把握しようとしても、するりと逃げてしまう。
それに参加しているはずの日本人も、この”システム”を概念的にとらえることができないし、いわんや変えることなどとてもできない。
その参加者の大半にそうとはっきり意識されないまま、”システム”は存在する。
姿も形もない。
それどころか、法にてらした正当性もないのである。
(このことを僕たちは、いつも念頭に置いておかなければならない。)
(2章、了)
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