戦争がもたらした幻滅 フロイト |
『戦争と死に関する時評』 1915年・フロイト (『人はなぜ戦争をするのか』光文社文庫より)
戦争がもたらしたもの、それは幻滅である。
(二つの幻滅)
この戦争でわたしたちは二つの点で幻滅を感じた。
・まずひとつは、国家は、自国の国民に向かっては倫理的な規範を守る監視人としてふるまうのに対し、他国に対しては倫理性の欠如をあらわにしたこと。
・もうひとつは、きわめて優れた知性をもつ人々が、信じられないほどの残虐なふるまいを示したことである。
(第一の幻滅)=倫理性の欠如をあらわにした国家
国家は、それを指導する政府によって代表される。
戦争を遂行した国家は、もし個々の国民が行ったならばその個人はいっさいの名誉を失うことになるであろう、あらゆる不正と暴力に手を染めたのである。
国家が国民に不正を行うことを禁じたのは、不正を無くすことが目的ではなく、国家が不正を独占しようとするためであった。
国家は国民には最大限の服従と犠牲を強いておきながら、過剰な秘密主義と言論の弾圧によって、国民がみずから行動する能力を剥奪した。
検閲により国民は知的に抑圧され、不利な状況や忌まわしい噂に対しても抵抗できなくなっていった。
国家は、これまで他の諸国と締結してきた安全保障条約や協定を解消してしまい、権力を誇示して恥じることを知らず、愛国心の名のもとに、国民がこれを公認することを求めたのである。
国家は国民に犠牲を強いておきながら、その犠牲に対して償いをするのはごく稀である。
もし共同体が悪を批判しなくなれば、悪しき情欲を抑える力はなくなる。
そして人間は、残酷で野蛮な行為を平然と犯すようになるのである。
(第二の幻滅)=きわめて優れた知性をもつ人々の残虐なふるまい
今次の戦争において、きわめて優れた知性をもつ人々が、
・洞察力の欠如
・頑迷さ
・ごく説得力のある議論にも耳を貸そうとしない傾向
・容易に論破できる議論に批判もせずに追随する傾向
などの症状を示した。
人間は道徳的に発達しなければならない存在であり、悪を克服し、高い道徳的な水準に到達するものと想定される。
ではなぜこのようにして根絶されたはずの悪が、高い教育をうけた人々のうちにこれほどの強さで再び現れたのだろう。
実は悪が根絶されることなどあり得ないのである。
人間のもっとも根深い本質は欲動の動きにある。
多くの欲動の動きは最初から二つの対立するものが対になって現れる。
それは「感情のアンビバレンツ」と呼ばれるもので、すぐに観察できる理解しやすい事例として、同じ人物において激しい愛と強い憎しみが同時に存在している場合をあげることができる。
人間の性格を「善」とか「悪」に分類するのは意味のあることではない。
ある人がまったくの善人であることも、まったくの悪人であることもごく稀である。
ある側面では「善」であり、ある側面では「悪」であるのが通例である。
これまでの経験から、大人になってから「善人」に代わるための条件が、幼年期には強い「悪の」欲動の動きが存在していることが明らかになっている。
幼年期に激しいエゴイストであった人が、成人してからはみずからを犠牲にして人々を手助けする市民になりうる。
人道主義者や動物愛護家が、小さい頃にはサディストであり、動物をいじめる癖のある子供であったということも多いのである。
今次の戦争において、世界市民たちが示した文化的とはいえない行動に、わたしたちは苦悩し、幻滅を感じたのであるが、これまでの考察から、それはむしろ根拠のないものだったかもしれないという「慰め」が得られる。
なぜならこうした苦悩や幻滅は、そもそもわたしたちが捉えられていた幻想に基づくものだったからである。
実際には世界市民たちは、わたしたちが信じ込んでいたほどの徳の高さを実現していた訳ではなく、わたしたちが懸念したほどに大きく堕落したわけでもなかったのである。
精神疾患の本質は、情動の生と機能が早期の状態に「退行」することにある。
戦争が人間に及ぼす影響が、「退行を生み出す力」であることは疑問の余地がない。
いま人々が文化的に行動していないからといって、そうした人々には文化的な適性がないと考える必要はない。
平和な時代には、人々の欲動が改造されて、再び優れたものとなることを期待してもよいのである。
人間の知性を独立した力として評価するのは間違いであり、知性が感情に左右されるということを見逃してはならない。
人間の知性を信頼できるのは、強い感情の動きにさらされていない場合だけである。
強い感情の支配のもとにあるときは、人間の知性は意志の道具としてふるまうのであり、意志の求める成果だけをもたらす。
精神分析の経験はこれをさらに裏づけるものとなっている。
ごく聡明な人でも、分析において示された洞察が自分の感情的な抵抗にであうと、突如として精神薄弱者と同じようにふるまうことがあり、この抵抗が克服されるとすべての知性が再び取り戻されるということを、精神分析医は毎日のように経験している。
今次の戦争においては、きわめて優秀な世界市民たちがまるで魔法にでもかかったかのように、論理的に思考できなくなってしまったのであるが、これも感情の動きの結果である。
こうした感情の動きが姿を消せば、この思考能力もまた回復することを期待しよう。
このようにして理解できるようになれば、戦争がもたらした幻滅も耐えやすいものになることだろう。
そもそもなぜ個々の民族は、たがいに貶めあい、憎みあい、嫌悪しあうのだろうか。
しかも平和な時代においても、すべての国民がそのようにするのか。
これはもちろん一つの謎である。
わたしにもこの謎を解くことはできない。
これについては次のことを指摘しておくしかないだろう。
多数の人々、数百万の人々が集うと、個人が獲得してきた道徳的な要素は解消されてしまい、原初的で、ごく古く、粗野な心構えだけが残るのだと。
この嘆かわしい状態が変わるのは、今後の人類の発達を待つしかないのかもしれない。
それでもすべての人々が、人間同士の関係においても、人々と支配者の関係においても、できるかぎりの誠実さと正直さを示すことが、この改革の道をなだらかなものとすることに役立つはずである。
とても、参考になりました。ありがとうございます。
自分のブログで、リンクを貼らせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?
ワタシは、フロイトもユングもあまり好きではなかったのですが(好き嫌いで判定してすみません)
八嶋さんの書かれたこの記事を読んで、やはり大切なことを教えていってくれた偉人なのだなぁと、あらためて感じました。
「感情のアンビバレンツ」は、誰もが持っていますよね。
HP含め、リンクを貼りたいモノばかりです。ご許可いただき、ありがとうございます♪