(13) 「永続敗戦」の構図 (白井聡『永続敗戦論からの展望』を読む) |
カテゴリ
最新の記事
記事ランキング
以前の記事
2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 04月 2016年 03月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2014年 12月 2014年 10月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2010年 08月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 02月 ブログジャンル
画像一覧
|
2014年 10月 25日
おそらく「敗戦の否認」こそが、この日本という国の自己欺瞞の最たるものであろう。 個人的には今この国で起きていることの中で、排外主義の跋扈(ばっこ)(=レイシズム、ヘイトスピーチ)に一番心を痛めている。 すべては自己欺瞞(=自分自身に嘘をつくこと)、すなわち屈辱的事実(都合の悪い事実)を「否認」して「隠蔽」してきたことに原因があるように思われる。 (以下要点) 「永続敗戦」の構図 ・ 敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならない。 ・ 深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。 この構図を白井聡は「永続敗戦」と呼ぶ。 ======== <「敗戦」→「終戦」へのすり替え> この欺瞞がなされなければならなかった最大の理由とは、 → 当時の支配者層は、敗北が必至とあらかじめ分かっていたあの戦争へと国民を追い込んで行った。 → その責任をうやむやにして、戦後も引き続き支配を続けることを正当化しなければならない、という動機があった。 → そもそも敗戦していないのであれば、誰も責任を問われる道理がなくなるという訳である。 <日米合作によって成立した半傀儡政権> 戦後日本の権力中枢の再編成は、日米合作によって成立した。 その経緯を鑑みれば、その体制が対米従属を基幹とする、半ば傀儡的なものとなったのは当然の事柄であった。 戦後日本の保守政治の根本は、米国が半傀儡的政権を通して行った間接統治である。 CIAの援助によって成立した政党がほぼ一貫して政権を握り続けてきたという一事をとっても、「敗戦」は今現在に至るまで継続している。 問題は、「敗戦が今現在に至るまで継続している」、ということを大多数の国民が知らないということである。 「敗戦」を「終戦」にすり替えて、「敗戦の否認」が意識における現実となったとしても、欺瞞は欺瞞でしかない。 その代償が「際限のない対米従属」である。 戦後の支配層は、米国の承認のもとに統治してきた以上、米国に頭が上がらないのは当然である。 かつ彼らは、米国に隷属しているという事実を、国民には否定してみせなければならない。 隷属こそは敗戦の証拠なのだから、敗戦をうやむやにするためには、隷属の事実が否認されなければならない。 以上の事情から、「真の独立」だの、「戦後政治の総決算」 だの、「戦後レジームからの脱却」だの、といった似たり寄ったりのスローガンが、同一の政治勢力から飽きもせず繰り返し発せられる。 そして際限のない対米従属と引き換えに、対アジアに対する敗戦は全力で否認されなければならない。 このことが、戦後補償や歴史認識の問題をめぐって繰り返し軋轢を引き起こしてきた。 ゆえに、対米従属とアジアでの日本の孤立という二つの事柄は、コインの両面であるとみなされなければならな い。 ======== <戦後の終わり> 「戦後」が決定的に終わってきたのは、「格差社会」がしきりに指摘され、「一億総中流」が明白に崩れてきた2000年代においてである。 というのは、「戦後日本」を形容する最も支配的な物語は「平和と繁栄」であったからだ。 そして隣国との対外的緊張が高まりを見せ始め、「平和」も危機へと向かいはじめる。 東日本大震災はこうした状況下で発生したのであり、「関東大震災によって大正時代は実質的に終わった」という歴史を思い起さずにはいられない。 つまり、震災と原発事故によって、いよいよ気分としても「戦後」が終わった。 なぜそう断言できるのか。 それは、ひとつには「戦後民主主義」の虚構性がはっきりと暴露されてしまったことが挙げられる。 この国の政府は「民主政府」ではない。 国民主権は、建前としてすら存在しない。 こうなると、「戦後とは民主主義と平和を大事にしてきた時代だ」という国民の大部分が同意してきたコンセンサスが崩れてくる。 ゆえに、社会が急速に「本音モード」に入ってきて、「平和と繁栄」の物語によって覆い隠されてきたこの社会の地金が表面に噴出してくることになる。 その覆い隠されてきた日本社会の本音とは何なのか? それこそが、「俺たちはあの戦争に本当は負けたわけじゃないんだ」という「敗戦の否認」にほかならない。 これまでは、敗戦国だということを一応建前としては認めてきた。 「お前らは戦争に負けただろって言われて、 本当は違うと思うけど、まあいいいか。 俺たちは平和で豊かだし。 負けたからには押し付けられた民主主義を一応信奉しているふりもしなけりゃいけないなあ」。 この建前は、「繁栄」が崩れれば、一挙に崩壊する。 「まあいいか」では済ませられなくなって、「本当は違う」という本音が爆発的に噴出し、「民主主義を信奉するふり」もかなぐり捨てられることになる。 「戦後」を支えてきた「平和と繁栄」は、客観的に変わってしまった。 にもかかわらず、この国の社会は、この「終わり」を受け止めることができていない。 「敗戦の否認」を代表するような政治家を選挙で首相に推しあげて、「成長神話よもう一度」の夢に酔っているのだから。 ある意味で、永続敗戦の構造はいま純化しつつあるのだといってもよい。 だがそれは、「終わりの始まり」に直面した社会が示している一種の痙攣的な反応だ。 結局のところ、いつかは受け止めるほかない。 それがソフトランディング的に実行されるか、破局的事態を通じてなのか――それが問題である。 ======== <またしても「敗北の否認」> 『永続敗戦論』刊行前後から、現在(2013年9月)までで目についた本論に関わる事態を、いくつか指摘しておきたい。 いずれの事象も本書で示した構図が真実を抉った(えぐった)ものであることを証明している。 その意味で、私(白井)の分析家としての力量は証明されたと言えるわけだが、そのことを喜ぶ気には到底なれない。 なぜなら、これらの「証明」は、永続敗戦レジームが依然として継続しているだけでなく、純化さえしており、出口を見つけることが全くできていないことを、物語っているからである。 (事態1)<安倍首相訪米> 最初に挙げたいのは、2月の安倍首相訪米である。 迎えたオバマ大統領の冷遇ぶりは際立っており、ほとんど嫌悪感を隠さなかったと言ってよいだろう。 『永続敗戦論』において私は、安倍の掲げる「戦後レジームからの脱却」が本気で追求されるならば、米国は「傀儡の分際がツケ上がるのもいい加減にしろ」という強烈なメッセージを送ってくることになるだろうという趣旨のことを書いたが、果たしてその通りとなった。 加えて、6月に行なわれた習近平・オバマ会談は、長時間に及び、実に対照的なものとなった。 この米中首脳会談についての日本の大メディアの報道ぶりは、「永続敗戦レジーム健在なり」を見事・無残なまでに証明するものであるように、白井には見えた。 すなわち、会談の詳細な内容を知る術はないにもかかわらず、米中の利害・政策対立の表面化を盛んに言い立てる報道が目立った。 「米中は永遠に対立していなければならな い、そうでなければ日本が米国のナンバーワン・パートナーであり続けられないから」、という報道ならぬ主観的願望の吐露が各紙の紙面を覆った。 哀れと言う ほかない。 (事態2)<レイシズム> 第二には、排外主義の跋扈である。 いわゆる「在特会」の活動が先鋭化し、東京・新大久保、大阪・鶴橋といったコリアンタウンで の示威活動が日常化するという状況が現出した。 ヘイトスピーチを堂々と行なう彼らの姿は、醜悪極まりなく、衝撃的でもあるが、彼らが戦後日本社会の必然的な鬼子であることは強調されるべきである。 戦前の日本において、朝鮮半島出身者をはじめとする植民地出身者は、暗に差別してよい存在であった。 現在、彼らもまた同等の人権を認めなければならないのは、敗戦の結果である。 ゆえに、レイシストたちの行動は、実に端的なやり方による「敗戦の否認」なのだ。 同等な存在として在日コリアンが存在していることは、日本の敗戦の「生きた証拠」である以上、彼らはそれを全力で否定しようとする。 「われわれは負けてなどいない、だから奴らを差別する、そうする権利をわれわれは持っている」。 これが、彼らのヘイトスピーチにおけるメタ・メッセージにほかなら ない。 そして、恐ろしいことに、このメッセージの最初の部分、「われわれは負けてなどいない」という部分は、国民のマジョリティに浸透した意識である。 ゆえに、レイシストが自分たちの運動を「国民運動」と称していることは、根拠なきことではない。 したがって、単なるリベラリズムやヒューマニズムによってはこの運動を解体することはできず、批判者は「戦後の核心」としての敗戦の問題に遡る必要がある。 (事態3)<原発事故とオリンピック招致> 最後に、福島原発事故の処理とオリンピック(2020年)招致の問題を挙げておく。 汚染水の処理問題という事故処理の初歩の初歩が、すでに事故処理を破綻の淵に追い込んでいる。 『永続敗戦論』のなかで、この国の「無責任の体系」がこの未曾有の事故を処理できるのか疑問である、という危惧を表明した。 不幸にも、この危惧は的中してしまった。 この不安を覆い隠すように、オリンピック招致の空騒ぎが演出され、しかもそれは実現してしまった。 「永続敗戦」の基本は、「敗戦の否認」であり、「失敗・敗北を認めないこと」にある。 要するに、当事者たちは、いまだに原発事故の深刻さを観念的に否定したがっているわけである。 こうした意識に基づく実践の帰結がどのようなものとなるのか、考えたくもない気分にしばしばとらわれている。
by omoinoha
| 2014-10-25 10:37
| 非心理学者が語る心理学
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||