ユング心理学ノート(6) 自己についての表現-1 |
(6)自己についての表現-1
かつて、自己についての表現を集めたことがある。
「自分の中心」「至宝(トレジュア)」「自分の核」「芯」「たましい」「神聖なもの」
「神」……
以下はその一部である。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』から
兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識である。すべての人間がもつ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識のちがいなど取るに足らない。この同一感を体験するためには、表面から核まで踏みこむことが必要である。
……もし核まで踏みこめば、私たちが同一であり、兄弟であることがわかる。表面と表面の関係ではなく、この中心と中心との関係が「中心的関係」である。
(『愛するということ』P78)
二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか人間の現実はない。人間の生はそこにしかなく、したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。調和があるのか対立があるのか、喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。根本的な事実とはすなわち、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力の強さである。これが実ったところにのみ、愛が認められる。
(同P154)
信念は、どんな友情や愛にも欠かせない特質である。他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。
同じ意味で、私たちは自分自身を「信じる」。私たちは、自分のなかに、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。……この芯こそが、「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。
(同P182)