『人生のほんとう』(池田晶子)を読む |
その言葉がなぜか頭を離れず、しばらく考え込んでしまう。
池田某は確実に死にますが、しかし「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」に気がついてしまうと、池田は死ぬが私は死なないと、そういう変な言い方が出てきたりします。
さて、死なない私とは何なのだろう……
私は私、あなたも私……
そんなことを考えているこの私は、「狂人三歩手前」なのかもしれない。
私は「私」である。
そしてあなたも「私」である。
私は(自分のことを)「私」である(と思っている)。
あなたも(自分のことを)「私」である(と思っている)。
だから「私」はみんなのすべてである。
おそらく「私」とは、存在そのものなのである。
「私」とは、魂であり、生命のすべてである。
そんなふうに思えてくる。
生命のすべてとはなにか……
またユングの言葉が思い浮かんでくる。
『ユング自伝Ⅰ』(P19~)
一生は、私にはいつも地下茎によって生きている植物のように思われたのである。
その本当の生命は地下茎の中にかくれていて見えない。
地上にみえる部分が一夏だけ生きつづけるにすぎない。
かくて、それは衰えていくつかのまの現われなのである。
いのちと文明との果てしない興亡を考える時、われわれは全くつまらないことという印象をうける。
けれども永遠の推移の下に生き、もちたえている何かについての感覚を私は決して失ってはいなかった。
われわれが見ているのは花であり、それは過ぎ去る。
しかし根は変わらない。
生命、それは地下茎のように息づいている。
地下茎のように息づいている本当の生命、それこそが「無意識」の本質であるように思えてくる。