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2011年 10月 07日
不幸にも、現代では人間の神話的な側面はあっさりと片づけられてしまっている。
人間はもはや神話を創り出そうとしない。
その結果、多くのことを人間は失っている。
(P138)
われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。
批判的な理性が優勢となればなる程、人生は不毛なものとなる。
しかし、より多くの無意識や神話を意識化することができる程、われわれの人生は統合度の高いものとなる。
無意識は、いろいろなことをわれわれに伝え、あるいは、比喩的なほのめかしによって、われわれを助けてくれる。
(P141)
神話は科学の最初の形態である。
(P144)
死は、とくに老人にとって、重要な関心事である。
老人には絶対的な疑問が課せられ、それに答える義務を負わされる。
このために、その人は死についての神話をもたねばならない。
それは、理性は彼が下りてゆきつつある暗い穴以外の何ものも示しはしないからである。
しかし、神話は死者の国についての、役に立つ豊かなイメージを人に現わしてくれる。
(P146)
無意識からの像は、知識にまで達するためには、意識との接触を必要とする。
(P146)
自然の中には無限の知識が存在しているように思われ、それは真実である。
しかし、それは、そのための時が熟したときのみ、意識によって理解される。
(P148)
この世のどこかにおいて達成された最高の認知は、死者が到達しうる知識の上限をなしていると、私には思われる。
多分このために、地上の生命が大きい意味をもつのであろう。
そして、人間が死にあたって、あの世に何を「持ち込める」かが重要なこととなるのであろう。
この世、地上の世界においてのみ、対立物が衝突し、意識の一般的な水準をあげることができる。
このことは人間の形而上の仕事であり、それは「神話化」することなしには達成することはできない。
(P153)
by omoinoha
| 2011-10-07 21:20
| ユングを読む
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